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かなしみはオレンジの匂い



 山のようなオレンジがおれの前に積み上げられている。広い作業台の付いたオープンスタイルのキッチンは、物件探しの条件として「使い勝手のいい素敵なキッチン」という一点のみを挙げた彼の一目惚れの相手で、そのステンレスの作業台は、きれい好きな彼の部屋のなかでもひときわ澄んだ光を反射していた。そして紺色のエプロンをかけた彼は今、その山のようなオレンジを一つ一つ丁寧に洗い、半分に切り、搾っていた。透明なガラス瓶にあざやかなオレンジの液体が次々と注がれていく。果汁に濡れる彼の細長い指が淀みなく繰り返す作業を眺めながら、時折グラスに氷を落として、瓶の中のジュースをおれは飲む。舌の表面をちくりと刺す、悪ふざけのような酸味がある。彼の表情はいつもと変わらず穏やかで、夜の雨のような瞳は静かに自分の動作を見つめている。
 おれはグラスの中身を飲み干して、わずかに眉を寄せる。沈黙に耐えかねたわけではないが、ほんの少し恐ろしい気持ちにもなって声を発する。
「このオレンジ、どうしたんだよ」
「近くのスーパーで箱売りしてたから買って来たんだ」
 彼が視線すら上げずに答えた。いつもと変わらず穏やかな声。けれども彼がオレンジを搾るのは、何かがあったときだ。何かというのはつまり、こころに、影の差すような何か。かなしみや、憐れみや、不安や焦り、おそらくそういった類いのもの。しかし、そのうちのどんな感情が彼のこころに覆い被さっているのかまでは、おれには知る由がない。彼のこころに冷たい雨を降らせる何か。おれは自分の部屋からその雨を眺めていることしか出来ない。
 ただ彼がオレンジを搾る。おれはそれが終わるまでじっと待っている。彼の清潔な手が一分の無駄もなく動き続けるのを黙って見ている。彼は涙一つこぼさない。濃厚なオレンジの果汁が詰め込まれたガラスの瓶だけが増えていく。飲み干しても飲み干してもいっこうになくなる気配のない、太陽のようなオレンジジュース。
「搾りたてのみかんジュースは美味しいだろう」
「おまえ、オレンジって言えよ」
「みかんとオレンジは何が違うの?」
「……さあ……知らないけどさ」
 彼はやはり手を休めることはなく、しかし少しだけおれを見て微笑む。おれは何故か戸惑いながら、グラスにもう何杯めかわからないジュースを注ぐ。みかん色、橙色、クローム・オレンジ、洗朱、サフラン・イエロー、山吹色……どの色も、暗いこころにはそぐわない。グラスを満たしてはおれが飲み干す、まぶしい夏の色彩。
「美味いな」
 そう言うと彼はふと手を止めた。立ち上がって、山積みにされたオレンジの果実を一つ手に取ると、おれは見様見真似でそれを洗い、切り、搾った。そしてスクイーザーから直接ジュースをグラスに注ぎ、彼に手渡した。
「おまえも飲めよ」
 彼の瞳にジュースの色が一瞬映り、おれは彼の顔をまっすぐ見つめた。彼の内に降る雨に打たれておれはわずかに泣きそうな気分になるが、無論気分だけで本当に泣きはしない。彼はタオルで両手を拭いて、グラスを受け取ると、そのなかの液体を一息に飲み干した。
「甘酸っぱい」
「健康な味がするな」
 ああ、と彼が頷き、また少し笑った。おれは血液の代わりにオレンジジュースが流れている自分の体を想像しつつも、もう一杯グラスに注いでそれを飲み干してみる。酸っぱいが、甘い、遠くへ飛び跳ねていきそうな味だ。そのうちに彼はオレンジを搾るのをやめる。人生はほんのりとかなしみに満ちている、などと思いながら、おれは部屋じゅうに溢れた香りを胸いっぱいに吸い込んだ。




おわり



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